DJW名誉理事長ルプレヒト・フォンドラン

デュッセルドルフから生まれた方向転換

2018-07-16, 11:19

ドイツと日本は目下ともに、介入・干渉されることのない世界規模での物品・サービス貿易の重要性を訴えている。しかしどの時代においても日独両国が歩調を同じくしてきたわけではない。調和の取れた協力関係に至るまでの道程には紆余曲折があった。両国がどれほどまでに長い道のりをともに歩んできたかは、経済の歴史に目を向ければ一目瞭然である。

経済復興と貿易摩擦
戦後日本は、復興の困難を乗り越えた後、その工業製品を携えてドイツ市場に進出し成功を収めた。特に電気機器やカメラの技術が、更にバイク、自動車、機械などの製品もまた、ドイツの消費者の心を射止めた。同時期、日本におけるドイツの生産財に対する需要はより低い水準に留まっていた。物品貿易の流れが変わった1970年代、ドイツから極東の島国への輸出は、日本からの輸入に対して半分程度にしか過ぎなかった。一方日本は、ドイツに遅れて奇跡の経済復興、すなわち高度経済成長期を迎え、対外貿易も同様に活発化した。日本の対米貿易も、同じように劇的ともいえる増加を見せた。それに対する米国の反応は、「ダンピング」、「自国産業保護目的での不正な補助」、「保護主義」という、極めて厳しい批判であった。世界は貿易戦争突入直前にあったのだ。まるで今日のように。

市場伯爵ラムスドルフ経済大臣
この状況を眼前にしたのが、デュッセルドルフに自宅を構え、1977年当時の首都ボンにおいて経済大臣の任に就いたグラーフ・ラムスドルフである。リベラルな考えを持つラムスドルフにとって、当時懸案となっていた貿易を制限するような措置は到底納得のいくものではなかった。「市場伯爵(Marktgraf)」の呼び名に相応しく、緊張の激化は何の助けにもならないという考えに動かされ行動した。市場は自由であり続けるべきなのだ。対立の解消は、企業活動を指向した調停策にのみ見い出せるとして、ラムスドルフは次の3点からなる方向性を打ち出した。

  • 日本において、当時幾分色あせていたドイツ産業が誇る高い性能のイメージに、より鮮明な輪郭を与えたいと考えた。そのイメージ作りにおいては、意識的に、伝統に裏打ちされた戦前からの友好的な日独協力に結び付けようとした。
  • ドイツ企業に、日本市場でのチャンスを実際に目で見て実感させることが肝要であると考えた。そうしたならば、この可能性の泉が汲み干されることはおよそなかろうという前提であった。
  • 貿易戦争を引き起こしかねない保護主義的措置は、是が非でも回避しようと努めた。

東京ドイツ産業博構想と逆風
米国政府に対しても、同様の考えに基づき働きかけた。好例を提示しようと、ラムスドルフは上述のコンセプトから「東京ドイツ産業博」のアイデアを生み出した。その際、当時既にドイツ輸出経済の屋台骨であった機械関連産業を特に視野に入れていた。ただし、産業博を通してドイツの工業製品メーカーの受注簿を短期的に埋めることを意図していたのではない。知日家であったラムスドルフは理解していたのだ。日本ではイメージが非常に重要な意味を持つこと、そして価値あるイメージは長い時間をかけてこそ醸成されるものであることを。すぐに息切れするようではならないのだ。しかしながら、ラムスドルフの考えは全方位からの理解を得られたわけではなかった。むしろその逆であり、その企図はドイツ国内で辛辣な反対に直面する。経済大臣から声が掛かった大企業の経営者たちは、ドイツから近距離にある市場を優先した。それは、輸出と不可分の輸送を考慮したがためだけではなく、極東の地での市場参入にかかるだろうコストの大きさに尻込みをしたのである。加えて、言葉や文化面での参入障壁も、ドイツ企業の経営者たちの目には、克服が困難であると映っていた。関税障壁を乗り越えるだけでは不十分であるという過去の経験を引き合いに出した。問題は何より、貿易の妨げとなる国内規制当局による参入障壁にあるのだと。

進むべき適切な道について、公けにも議論が行われ、時に議論が極端なほど白熱することもあった。たとえばツァイト紙の編集主幹が産業界を取材して回った結果として、産業界の声が1984年1月20日付けの同紙に掲載された。そこには、太字で「恥ずかしや。東京ドイツ産業博、惨めな失敗に終わる恐れ」という見出しが躍った。化学業界のトップは、「高い能力を集団的に示したところで、測定可能な評判を得ることは期待できない」と述べた。ある企業経営者の「極東の地で示威的にその存在を示すことは、軽薄と紙一重だ」という警告も引用されている。在日ドイツ商工会議所までもが、メンバーである在日ドイツ企業の評判を危惧し、「我々が笑いものになるくらいなら、産業博など開催しないほうがましだ」とこぼしている。

ありとあらゆる攻撃にもかかわらず、経済大臣は計画を推し進めていった。書面のみならず電話を通して、多くの大企業の経営幹部と直接連絡を取り、話し合った。そのような日本での演出は、極めて属人的な取り組みであると自ら察したのではないだろうか。それでもなお、自身の決意の固さを示すため、ラムスドルフは、デュッセルドルフに拠点を置くドイツメッセの当時の社長であったクルト・ショープに、より詳細な計画を策定するよう依頼した。

東京ドイツ博の成功
すべてではなかったが、ラムスドルフは十分な数の企業の説得に成功した。産業博は、広範にわたる準備を経た1984年、東京晴海港において、ドイツ人デザイナーにより設計されたテント村で開催された。そしてその成功が実証された。上述のツァイト紙でさえ前言を撤回し、ドイツ企業は「この巡り合わせを大いに利用すべきである。過去の失敗を取り戻すこのような好機はそうすぐに訪れるものではない」との評価を与えた。

回避された貿易戦争と多角的貿易体制のもとで実現した経済の発展と繁栄
最終的に日本側もドイツ側も、成し遂げたことに対して満足であった。その波及効果が米国に届かないわけがなく、貿易戦争は回避された。昨今の緊張を鑑みれば、あの当時「市場伯爵」が意志を押し通していなかったとしたら今日の世界はどうなっていただろうかと、問うことにも価値があるのではなかろうか。もしあの頃、通商政策の立案者が相互に報復措置を発動していたならば、分業の発達した世界において我々が実現した繁栄を享受できることはなかったであろう。1984年の「ドイツ産業博」はひとつの転換点であった。その転換のための前提条件を整えたこのデュッセルドルフの地にあって我々は、この歴史を記憶に留めていかねばなるまい。それ以来、日本と欧州連合はともに、世界を舞台に説得力をもって、市場の自由を守るために尽力してきたのだ。デュッセルドルフにおいて我々がその重要な一端を担い育んできた、生き生きとした友好関係が存在する。その友好関係は、今後も維持されなければならない。

日EU経済連携協定に関する共同記者会見</BR>
2018年5月4日、於デュッセルドルフ</BR>
(写真左から)Dr. ルプレヒト・フォンドラン(DJW)、アンドレアス・シュミッツ(IHK)、水内龍太・在デュッセルドルフ日本国総領事、Prof. Dr. アンドレアス・ピンクヴァルトNRW州経済大臣、トーマス・ガイゼル・デュッセルドルフ市長、安部勝(JIHK)、木場亮(JETRO)</BR>
© Uwe Schaffmeister/Landeshauptstadt Düsseldorf 日EU経済連携協定に関する共同記者会見
2018年5月4日、於デュッセルドルフ
(写真左から)Dr. ルプレヒト・フォンドラン(DJW)、アンドレアス・シュミッツ(IHK)、水内龍太・在デュッセルドルフ日本国総領事、Prof. Dr. アンドレアス・ピンクヴァルトNRW州経済大臣、トーマス・ガイゼル・デュッセルドルフ市長、安部勝(JIHK)、木場亮(JETRO)
© Uwe Schaffmeister/Landeshauptstadt Düsseldorf
Dr. ルプレヒト・フォンドラン
日独産業協会(DJW)名誉理事長
独日協会連合会(VDJG)名誉会長
info@djw.de
http://www.djw.de
Dr. ルプレヒト・フォンドラン
日独産業協会(DJW)名誉理事長
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